これで最後です。
さて、石原氏はよく天才的なポピュリストだと言われています。昔から、大衆の欲望を救い上げるのに天才的な才能を持っている、という評価です。どうしてそうなのだろう、と疑問に思っていましたが、いま思うのは、石原氏自信が甘えを求める願望を持っているからこそ、大衆の「甘えを求める願望」に敏感なのではないかということです。つまり、甘えさせてあげられるような主張なり政策なりを、適切なターゲットに適切に提供できるということです。
今回取り上げている大塚氏の本書(「サブカルチャー文学論」(朝日文庫))の中で、石原氏は昔からタフなネゴシエーターとしての能力も持っていると書かれています。かつて「太陽の季節」がヒットして弟の石原裕次郎を主演にした映画が大ヒットしたあと、ある映画会社が次の小説の映画化権を買いたいと持ちかけてきたことがあるそうです。そのとき、「次の小説」は題名もプロットもまだ何も決めてなかったのに、弟の主演を条件に映画化権を売ることを決めてしまう。決めてしまってから、きわめて短時間でその小説を書き上げたということをやったらしいのです(石原氏の著書「弟」にこのような記述があるようです)。ありもしない小説の映画化権を売るというネゴシエーターぶりには、皮肉なしに親近感を覚えたと大塚氏は書いています。これは今まさに同じような仕事をしている立場の者としての思いとしていますが、そういう、いわゆる世間の「風」を読む能力に長けていることも石原氏の特徴なのでしょう。
大衆が全体としていまどんなことを求めているかに敏感で、かつそれを難なくビジネスなり政治なりに結びつける能力。多くの人が望むものを提供でき、それをビジネスにしていこうという人たちも巻き込めていけるネゴシエーターぶり。これが石原氏の特徴といえるでしょう。
こういう人を相手に政治戦を闘うのが非常に大変なことは、容易に想像が付くことと思います。なにせ多数の大衆の欲望を受け止めて政治にしていくわけですから。欲望に直結した行動ほど強いものはない。ましてや現状に強い不満なり不安を持っている人々の欲求はただでさえ強いのですから。
「政治」のレベルにはその国の「民度」がある程度反映されるといいます。石原氏がトップにいる東京の「政治」は、それを、つまり「社会の成熟」度を一番わかりやすく示しているのかもしれません。