安倍氏自身が体現しているものとは、氏自らが認識している世界が、「自身が望む世界」とシンクロしており、かつそうやって「認識している世界」の外側にあるはずの現実の存在をきれいさっぱりと欠落させているという、言わば「自分の考える物語の主人公」であるということだ。
或いは「閉じたお話」の中で全能感に浸るたった一人のヒーロー、とでも言い換えようか。
おそらく、氏自身にそのような認識はないだろう。そして「私はちゃんと現実を見据えて行動している」とでも反論するだろうし、氏自身がそういう認識を持っていることもおそらく間違いないだろう。
でも、だからこそ感じるのだが、氏の世界認識は常に閉じており、その「認識」の外側にある事柄とは一切のつながりをもたない、とどうしても感じてしまうのだ。
いや、閉じてつながりを持たないだけならまだましだ。なぜなら、そこには「殻を閉じてつながりを拒否する外部」としての現実の存在が示唆されているからだ。
氏の認識がやっかいなのは、自分が認識する世界が世界中の誰とでも共通であるということを、些かの屈託もなく自明のもの、前提としてほぼ無意識的に認識しているだろう点にある。氏は、自分の世界観と他人の世界観に境界はないと、無意識的に感じているのではないか、と思ってしまうぐらいである。
安倍氏は積極的にネットメディアを利用している。そのネットメディアの投稿には、活動報告などいろいろ書き込みがあるが、その投稿の中には、氏の世界観の中では「敵」である非支持者・反対者について、名指しであからさまに非難したりする投稿がしばしばなされる。実はそういう投稿に、安倍氏の世界観の「閉じ方」が一番よく表れている。
例えば「TPPに反対するのは左翼」とか「左翼の人々が演説を妨害」などという書き込みがある。一昔前の政治家なら、このようなことを言う/書くにしても、なぜ自分がそう言うか説明を加えていた。その姿勢には、自分とは違う形で世界を見ている人々がいる、そういう「自分」と「外部」とのつながりを意識しているからこその「姿勢」であると言える。
しかし安倍氏は、そういう説明を一切しないままに、実に屈託なくあっけらかんと「お前は敵だ」というようなことを言ってしまう。説明もなにもないままに感じたまま言っている、そんな印象だ。
ろくに説明もせず、屈託なく言い切るのは、自分の認識する世界観がそのまま世界であると認識していることの反映に他ならないのではないか。「信じている」と書かなかったのは、実際に信じているのではなく、それが当たり前であることを自らの存在をもって示しているのであって、信じる信じないの次元の話ではないからだ。安倍氏は、自分が認識している世界以外に、何かが存在していることすら思っていないのではないか、とすら思う。そういう意味で、安倍氏の「世界」は、「世界」の「外部」の存在すら感じさせないほどに閉じきっている。だから、自分に反対するものに対して、「左翼だ」「論外だ」と、ろくな論拠も示さずに言えてしまうのだろうと思う。
自分の認識する世界で、自分の思うとおりに振る舞う。これほど居心地のいい「世界」もあるまい。そういう「世界」を自明のものとして、その「世界」で生きる安倍氏には、自分の考えや思いを他人に説明する必要はない。なぜなら、その安倍氏の認識する「世界」は既にみんなに認識され共有されていることが前提になっているからだ。
今の世の中には、実に多くの「物語」が商品として流通しており、それこそ「閉じきった世界」を表現した物語も容易に探せるだろう。「閉じきった物語」には、基本的に「外部」に当たるものが存在しない。外部が存在しないから、物語の中では「衝突」が起こらず、常に安定した世界が保たれる。そしてその「物語」の中に居る者は、「物語」が続く限り自らの存在意義を問われることもなく安定して存在して居られるのだ。
「安倍晋三」という存在は、そんな「世界」の「住人」を体現しているのではないか。そう思う次第だ。
さて、参議院議員選挙が始まる。この国の住人はどういう選択をするのだろうか。