灰谷健次郎さんが死去 社会派の児童文学作家 from 東京新聞 2006.11.23
本を読む際に、しっかりと構えてからでないと読めない本がある。構えて読むというのは、精神的に落ち着きを持ちつつ、読み終わるまで妨げが入らないような環境で読むことをさす。通勤の行き返りに断続的に読むとか、寝る前に読むとかすると、本の内容がまるで伝わってこないような本とでもいおうか。こう書くと大げさに聞こえるだろうが、映画館でなければ見る価値がないような映画みたいな本のこと、と例えられるかもしれない。
私にとって、灰谷健次郎氏の本はそういう本だった。
1974年に発表された「兎の目」を、当時小学生だった私は両親から与えられた。字の多さに四苦八苦しながら読んだ記憶がある。内容はおぼろげにしか覚えていないのは、通して読んだのがそのころだけで、しかし「よくわからないが、なんだかとっても内容が重い本」という印象だけしか残っていないからだ。そんなに難しい文章ではなかったはずだが、なんだか重いものを感じて、そのとき以降、読もうと思っても気分や体調が整っていないと読めないと思うようになってしまった。
それでも灰谷氏の本をぽつぽつと買い揃え、近年の作品以外は手元にある。みな一度は読み通したことがあるが、二度目を読むにはなかなかエネルギーが要るようで、なかなか手を出せないでいる。
そんな中でも繰り返し読んでいたのが「少女の器」という本だ。両親が離婚した高校生中学生の娘が主人公の短編だが、大学で美術を教える同居の母が孤独さに耐えながら自立した生き方をめざすのをみて、日々傷つけられており、その娘の支えになっているのが離婚した父という、繊細で微妙な関係を描いている。
具体的な中身がようやくできればいいのだが、それができないのは、この本の内容にまだ自分の頭が追いついていないからだ。
読むたびに、この主人公の娘が非常に繊細かつ頭がよいことに、半ば打ちのめされる気分にさせられる。すごく傷ついているのに、どうしてこんなに繊細でいられるのか、どうしてこんなに強くなれるのか。そんなことをいたる場面で感じさせられる本は他にない。この本をはじめて読んでから10年以上経つが、いまだに「(登場人物や物語に)追いつけていない」と思ってしまう。こういう本が書ける灰谷氏はすごいとずっと思っていた。
「ろくべえまってろよ」「子供の隣り」「海の物語」「海の図」・・・みんな好きな本ばかり、私がこういえる著者は他にはあまりいない。
憲法や教育基本法のことをはじめ、教育をめぐる問題に積極的にコミットしていた灰谷氏。氏の著書を読み返すことで、その思いを確認したいと思う。
また一人、大事な人を失いました。冥福をお祈りします。
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