以前、ウクライナの大統領選挙を巡る混乱をネタに「民主主義」の有効性を考えるというエントリーを書いたことがある。「民主化のうねりが押し寄せた」とも評されたこの事態の裏に、アメリカなど外国勢の動きがあって、しかしそうだとしても、こういう形で多数を動員するには「民主主義」的な啓蒙活動は必要であり、それは国民個々の「民主主義」の経験値を上げることになるのではないか、という趣旨の内容である。
この件はもう5年前の話だが、最近のイラン大統領選挙での混乱など似たような事態は世界のどこかに常にあるようで、こういう観点から見ると「民主主義」は常に至るところで動き変化しているなと感じる。
そしてこの国でも「民主主義の経験値」を示す機会が4年ぶりにやってきている。8月30日投票予定の衆議院議員総選挙である。
戦後の長きにわたり政権についていた自民党がこれまでにない混乱した状態に陥り、民主党による「政権交代」が相当のレベルで現実味を帯びてきている状況で、この国の国民がどういう選択をするのかが注目されている選挙である。
この状況を、5年前のウクライナの事態と比較したとき、双方の「事態の変化」の構造が、相当に似ていることに気づいた。
ウクライナの大統領選挙も、見方を変えれば「政権交代」を争った選挙とも言える。それまでの新ロシア路線か、野党側が目指す親欧米路線かが大きな争点の柱になっていた。
日本でも、今回の総選挙の大きなポイントは「政権交代がなるかどうか」であり、主にマスメディアを使った大量宣伝による「政権交代」の演出は、ウクライナとは具体的な手法は違うもののその本質は同じだと考えて良い。曰く「政権交代」によって本当に得する者は表には現れず、陰で様々な仕掛けを張り巡らせているという構図に、かのウクライナと今の日本とはそう大差はないということだ。
(間違ってもこれは陰謀論ではない。「本当に得する者」が全く見えないわけではなく、ちゃんと社会に存在しつつ、隠然とした影響力を持っているということである。たとえばメディアにとっての大広告主である大企業群のように。)
もちろん、今の日本の「政権交代」を求める強い世論の背景には、いま正に進行している生活や社会の劣化に苦しむ人々の、よりよい方向への変化を求める多数の声があることは承知している。このどうしようもない状況を何とかしてほしいという強い要求であり、それをベースにした「政権交代」を求める主張には、相応の説得力があるのはある意味当然である。そしてどんなに強固な政権(見かけ上を含め)でも、その意向を無視できない点で、たとえマスメディアの情報洪水にあおられているとしても、それなりに民主主義は機能していると言える。まあこんなことは言わずもがなであるが。
で、本来なら、総選挙に当たって何をどう変えるのか、それによってどういう社会を構築するかという方向性について、多数の人々の間で無数の議論がなされるのが筋だと個人的には思うのだが、実際のところそれが十分なされているとは言い難い。マスメディアから大量に発信される有象無象の情報量を前に、多くの人々がその情報を処理しきれずに思考停止ないしはむりやり結論に持っていくような事態がそこかしこに起こっているように見える(もちろん全てそうだとは全く思っていないが)。しかし、そういう状況下で出される「とにかく変化を」「まずは政権交代」という意見について、その重みは理解できる。現状を打開するために、政治を変えることはいまや重要な条件だ。「政権交代」で「何か」が変えられるのなら、それはそれで大事なことだと考える。
その上で、やはり問い続けるべきなのは「何を変えるのか」ということだと思っている。言い方を変えれば「何をどうしてほしいのか」ということでもある。多くの国民の生活が痛めつけられている中、何をどう変えればそれが改善されるのか。それを問う作業が合わせて不可欠なのであり、それを私は問い続けたいと思っている。
今度の総選挙、先の東京都議選の結果から、多くの人が民主党の大勝を予測している。それは、先に述べたように変化を求める強い要求の現れでもある。そういう流れを察知して「民主党の勝ちすぎ」を危惧する声も見かけるようになった。そういう思いは私も持っている。そして、民主支持層のいくらかを他の野党に振り分ければ民主党の勝ちすぎを抑制して牽制できるという意見も見るが、いくら「数字合わせ」をしたところで、そういう方向にいく保証はどこにも何もない。
そもそも政党の打ち出す政策というのは、自らの支持基盤の意向に沿うものになるのが当然であり、一見国民の生活に配慮しているように見える政策でも、一方でそれと矛盾する政策とも同居しているのが民主党の政策(もちろん民主党だけでなく、自公与党もそうなっているが)である。民主党に政治を変えることを期待するのなら、本来ならもっと以前から、同党の政策決定に大きな影響を与えるような大衆的な運動を作るべきだったと考える。それもメディアなど目立つところに出る運動ではなく、地道に人々の要求をすくい上げていくような運動を。そう考えるが如何に。
それでも民主党の勝利が濃厚な情勢である以上、来るべき民主党政権をしっかり牽制できる、文字通りの大衆的な運動を作り上げることが出来るかが、いわゆる「左派」が総体として目指している(はずの)国民生活の改善に結びつけられるかどうかの「肝」となっていると思う。
そこに、今とこれからのの日本の「民主主義の経験値」が示されると思う。
追記:ちなみに私は、変化の可能性を評価しつつ、民主党の掲げる政策には全体として指示は出来ない。自公・民主(連立相手も含む)のどちらでもない外部から、普通の国民の生活改善につながる政策の実現と、そうならない政策の中止・阻止を求めていく立場をとりたい。そうなると政党支持としては日本共産党しか残らないが、そういうことだと受け取ってもらって構わない。
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