さて続きです。
前のエントリーで取り上げた大塚英志氏による「サブカルチャー文学論」(朝日文庫)をヒントにした石原氏の批判の仕方の考察です。
前回の終わりでは、どうも石原氏には、同氏の小説の主人公たちと同様に、内面を持つ他者と向き合うことを回避しているのではないか、と書きました。
そう思える場面を、メディアを通じてですが何度か見たことがあります。ひとつは、何年か前に見た都議会中継で、どのような中身かはすっかり忘れていますが、共産党議員の質問に対し「だからお前たちはダメなんだ」というような、必要以上に感情的な「反論」をしてたことがありました。程度の差はあれ、自分の意に沿わない相手に対しては、必要以上に罵倒する言葉を使うのが石原氏の特徴でもありますが、そのときは、普段より特別に反応していたと感じられました。
一方で、直近の都議会で民主党議員が石原都政を批判する質問をしたときに、「なら民主党はなぜ都提案の議案にすべて賛成してきたのか」と皮肉まじりに反論したことは記憶に新しいと思います。相手が自分の手のひらにあるときは、おそらく余裕を持って対応できるのでしょう。
要するに、思い通りにいかない相手に対する病的ともいえる攻撃的反応の裏側には、なにか得体の知れないものに襲われるというような恐怖感があるのではないかと感じるのです。
そのことは、大塚氏が同書収録の「『太陽の季節』は何故「サブカルチュア」文学ではないのか」という論文内で、「石原の小説なり言動なりを見聞きする時、興味深いのは、彼がしばしば行う差別的としか思えない発言の中にどうやら他者の内面への恐怖があるのではないかということだ」と指摘しています。
大塚氏は、石原氏が障害者施設を訪問したときにした「不用意な発言」について、「文学的な意味で述べた」と弁明したことについて、「そのときの彼の発言に対してぼくは『灰色の教室』の以下の一節を思い出していた」として、石原氏の小説『灰色の教室』の一説を引用しました。
義久はあの痙攣を見る度に全身が寒くなるのだ。三原は時折この奇態な動作を始めるのだが、彼自身どうすることも出来ないと言つている。それは果して唯の癖とか病気と言うだけのものなのだろうか。義久は二年生の修学旅行の折、夜中手洗いへ起きた帰りに寝返りを打ちながら三原が体を痙攣させているのを見て何か人間以外の生命がこの男の体の中で動いているような気がし、危うく叫び声をあげるところであつた。
普段は温和しく頭も他の者と比べ可成り優れたこの男にこうした異常なものを見る度、彼は人間の知らぬ真暗な何者かが、この地上に現れようとして胎動している気がし、そうした未知の何ものかの運命を自分の運命と一緒に背負い込んだこの男を気の毒に思いながらも、見てはならぬものを見てしまつたようにぎよつとした気持になるのだつた。(石原慎太郎『灰色の教室』)
大塚氏によれば、この小説の主人公は、友人の奇態に対して、中になにか得体の知れないものがいると感じている。そして「この得体の知れないもの」は、作者(=石原慎太郎氏)によって「幽霊」とか「物憑き」に書き換えられてしまう、といいます。
そして、本来は「心」とか「内面」として記されるべきものを、石原氏は「あたかもエイリアンベビーの如くからだの中で蠢く『人間以外の生命』と比喩」するなど、「オカルト的に言い換えないことには」、石原氏は『内面』について語ることができないとして、そこに他者の『内面』への恐怖があるのではないかと、指摘しています。
他者の「内面」をおそれるからこそ、それは回避されなければならない。そうでなければ自分自身の「根拠」が失われる。他者が現れたときは、自らの崩壊を避けるために、他者を排除せねばならない。
乱暴を承知であえてまとめれば、石原氏がしばしば行う他者に対する暴言の理由は、このあたりにあるのではないか、と推察できるかと思います。
言ってしまえば、ずいぶん甘えた思い込みといえるでしょう。そういう点を指摘して批判をすることも難しいことではありません。
しかしそれでも厄介なのは、おそらくこの手の思いというか感情は、程度の差はあれ誰にでもあるものだとということです。特に男性などは、意識的か無意識かにかかわらず(たぶん無意識に思っている人が多いだろうけど)おそらくこういう傾向を持っている。こうして書いている私自身を振り返っても、当てはまる点はいくらでも思いつきます。
要するに、石原氏と同様の、心のうちにある「甘えさせてほしい願望」が誰にでもあることが、石原氏の「批判のしにくさ」の理由としてあるのではないかと思うのです。
石原氏の「勇ましく強いリーダー」というイメージからは、こんなことはおそらく想像できないでしょう。でも、他者への恐怖という視点からみれば、その目に見える「強さ」の裏に、他者への恐怖感が潜んでいることが浮き彫りになってきます。石原氏が、対立する相手との議論を避けることは、週刊誌などのメディアでもしばしば指摘されてきたことですが、一方で基本的に支持者ばかりの集まりでは、本当に好きなことばかりをいう。これたらの行動も、他者への恐怖が理由であるならばある程度想像がつきます。
ではなぜ石原氏の支持がなかなか下がらないのか。それは支持する方にも「甘えさせてほしい願望」が強いからではないか。そんなことを今考えています。
この現代社会を生きるには、日々否応無く他者と付き合っていくことが求められます。会社員であれ個人事業であれ学生であれ誰であれ、好きでもない相手と付き合わなければいけない場面は、それこそ山のようにあります。目が覚めている間はすべて他者との付き合いがあるといっていい。気の会う相手などそうそういるものではありません。これは誰でもおかれている条件にそう変わりはありません。
だからこそ、そういう中で疲れた自分をほっとさせる時間なり空間なりを求めるのは、ごく自然なことでありましょう。そうやって毎日の生活で溜め込んだストレスをある程度解消できているうちはまだいい。
しかし、現代社会はなかなか先の展望を見出すのが難しい。ましてや、大多数の人の収入は上がるどころか、良くて横ばい、大抵はマイナスという状態。おまけにその収入さえいつまでも保証されるわけではない。仕事ができているうちはまだ良いが、そもそも仕事に就けないとか何らかの理由で仕事が続けられなくなれば、たちまち生活が覚束なくなる。そうやって疲れていく自分を癒してほしいと思う感情を抑制することは、相当に難しいことだと思います。むしろ癒しなり甘えられる環境なりを求めてしまうでしょう。
こういう気持ちが堪りに堪っていくと、そういう状態を一挙に解消したい欲求がうまれてくるのもむべなるかなと思います。こういうときに、強いリーダーを求めてしまう気持ちが生まれてくる。
経済的に余裕があるうちは、そういうものはあまり目立ちません。しかし今は格差がどんどん広がってきて、経済的に厳しい人たちに現状を破壊したいという欲望が増殖しているだろうと思います。だからこの状況を一挙に打開できるリーダーを求めてしまう動きなり思いが現れる。
石原氏が支持される理由はのひとつは、まさにそこにあるのだと思うのです。
次に続きます。
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