政府・与党側を実質的に答弁不能にまで追い込んだが、最後に数の力で無理押しされてしまった教育基本法の「改正」。この決着がつくまでは触れないでおこうと思っていたことがひとつある。それは、今の巨大与党に対決していくには、やはり国会だけで闘っていては決定的に力が足りないということだ。
こんな言い方は、なかなかしっくりした言葉が見つからず、あまりいい言い方ではないのはわかっている。それでも承知であえて言わせてもらえば、教育基本法「改正」が最後の最後で政府・与党側に押し切られてしまったのは、「改正」反対運動の少なくない部分が国会議員頼みになっていたのではなかったか、と思えて仕方ないのだ。もちろん全部の運動がそうだったとはまったく思わない。自発的な運動は全国各地に生まれていたのも知っている。でもやはり、語弊を恐れずに言えば、今回の教育基本法をめぐる問題では、「改正」反対派は、最後の最後で、全面的ではないにせよ国会議員頼みをせざるを得ない状況になってしまっていたのではないかと思うのだ。
この国の政治において、国会での勢力関係の比重はとても思い。ましてや今は、自公与党で衆議院で300議席超を持っている。その「勢力」の重みは半端ではない。だが、それでも相手の思惑を大幅に狂わすことはできる。それはこの教育基本法や共謀罪をめぐる動きである程度証明されたと考えている。しかし、でも最後の最後に国会での採決に持ち込まれてしまうと、よほどの不測の事態が起きない限り、数の力に押し込まれてしまうことがほとんどだ。
今回の教育基本法「改正」反対の運動も、相手のスケジュールを大きく狂わせることはできたし、「強行採決」しなければ相手が望む結果が得られないところまで追い込んだのは確かだ。
でも、最後の最後で野党の一部は踏ん張りきれなかった。参議院の民主党などは、圧倒的な勢力の差の前に「無駄なことはしない」と言い、「首相問責」という形での意思表示をすることさえやめてしまった。そんなことを言ってしまう国会議員の問題も重大だが、そんな程度の国会議員にさえも(まったく全面的にでないが)頼らざるを得ない状況が生まれてしまったことは、「改正」反対運動側の課題になるのではないかと感じたのだ。
改めて誤解のないように記すが、今回の「改正」反対運動を低く評価するつもりは一切ない。むしろ、今後の社会を展望する上で新しい方向性さえ見出せると思っている。それを生かす上で、クリアしなければならない課題のひとつが、国会議員頼みになってしまう面があることだと考えているのだ。
この教育基本法「改正」反対運動の中でずっと気になっていたのは、現憲法において教育を受ける権利を保障されている当の子供たちの声が、思ったほど聞こえてこなかったことだ。もちろん私が見ていないだけという可能性もある。だが、権利を持つ当事者の声が反対運動にかかわる人々の間に伝わりきれていないというのは、運動が広がりをもてていなかったのではないかと考えることもある。
この反対運動の中で教職員組合や教員の果たした役割は小さくないだろう。だが、それは教員中心の運動になっていなかったか。そしてこれは、反対運動にかかわっていた人々や団体にも問われるのではないのだろうか。私ごときに問いかける資格があるとは思っていないが、それでもできれば考えてほしいことだなと思うのだ。もちろん、これを書いている私自身にも、このことは当然問われなければならないと思っている。
こんなことを考えたのは、知人から言われた次の言葉がきっかけだった。
曰く「本当に、子供たちが大事に思っている先生なら、その先生の運動に子供たちはついてくるものだ」。
教員に対するネガティブキャンペーンが吹き荒れ、実質的に国(権力)による教育委員会を通じた統制が厳しく行われている中で、教員たちがなにか運動を起こすことは大変かもしれない。しかし、そんな中でも教員たちは子供たちから注視されているはずなのだ。そしてそれは、この国の大人全体にももれなく言えることだと思っている。
要するに、国会議員に頼ることが問題ではない。国会議員への働きかけだけでなんとかしようすることが、そして国会議員に頼らざるを得なくなってしまうことが問題だと思うのだ。今回のことを通じて、国会議員を動かすのも運動次第だと考えるようになった。
教育基本法「改正」を阻止できなかったことで、自分の中にある「わかっているつもり」のことが、実はわかっていなかったことであることに気づかされた思いだ。
まだまだこれからやってくる問題は山積みだ。共謀罪、防衛省昇格にからむ問題、ホワイトカラー・エグゼンプション、格差問題、・・・そして憲法「改定」をめぐる攻防が。
まだ何も終わっちゃいない。これからもやることは沢山ある。
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