昨日、というかもう一昨日になるが、大塚英志氏の講演会に行ってきた。出版関係のフリーランサーで作る個人加盟組合の出版ネッツ(ユニオン出版ネットワーク。出版労連所属)が開いた2月の寄り合いに、大塚氏が講師として招かれたもの。テーマは「[憲法力]をつける。―政治のことばを取り戻すために―」。
正念場を迎える日本国憲法を巡る情勢を確かめるつもりで参加したのだが、今の社会状況に対してほとんど無意識的に感じていたいくつかの思いを、具体的に認識させてもらった点で、非常に有意義な話だった。
今回の話は、主催した組合の方でテープ起こしをして、いずれ組合のサイトにアップするとのことなので、詳細はそちらに譲るとして、乱暴を承知の上で要約させてもらえば、大まかにいって次のような内容だった。
曰く、日本の有権者が有権者らしく行動できなかったがゆえに、残念ながら改憲が行われようとする状況が作られた。これは、知らない「他者」と共同で社会を作っていくのが近代社会、近代国家の基本的なあり方なのに、その「他者」を知らないがゆえに怖がり、共同で社会を作ることを放棄しつづけてきたことの結果である。日本国憲法では、武力ではなく「ことば」で他者と関わっていくことを宣言したはずなのに、実際はその努力を怠ってきた。よって他者とかかわるためのツールであるはずの「ことば」が有効性を失い、「空気を読む」ことでなし崩し的に「現実」への対応ばかりする風潮が跋扈してしまった。しかし、知らない「他者」と関わって社会や関係を作っていかなければいけない状況は厳然としてあり、それは今後もおそらく変わらない。ならばいま必要なのは、「他者と関わって社会を共同で作る」ための「ことば」をもう一度作ることである。現行憲法の前文と第9条の意味は、武力を放棄した日本は「ことば」によって「他者」と関わっていくと宣言したものであり、その憲法を擁護する運動はそのまま「他者」と関わって社会を作り直していく運動になる。そのための「ことば」を作り直すためにも、憲法をめぐる言説をどんどん展開していくべきだ。
とまあ、こんなところだ。要約といいながら長くなったのは、大塚氏が非常に早口でかつ理路整然と2時間しゃべりまくったからであり、この程度では50分の1ぐらいではなかろうか、とも思う。
しかし開口一番、護憲の立場から見た日本国憲法をめぐる情勢について「すでに遅すぎる」、近いうちに改憲が行われるだろうと言い切ったのは、さすがというところ。皮膚で感じていたことを、具体的な認識に引き上げようとしたのは、当然といえば当然か。昨年の総選挙の結果も、有権者が今の右傾化の「空気を読んだ」結果であって、実は第1回の総選挙から有権者は「空気を読」み続けてきたんだという話とか、2ちゃんねるなどは「空気を読む」のカタマリみたいなものという趣旨の発言も出てきてとても面白かった。全体としてほぼ同意できる話だし、中でもその通りと思ったのは、「今の日本人に憲法を変える能力はない」という点。国家としての外交能力が劣っているとしか思えないのに、武力を持つことを公然化すれば、身も蓋もなくいって「何とかに刃物」状態になると常々思っていただけに、激しく同意した。
つまりは、「他者」を関わらざるを得ない以上、そして憲法で武力を放棄したを宣言した以上、「ことば」によって「他者」と関わるしかない。いわゆる「公共性」を共同で作り上げていくしかない。しかしここでいう「公」は、国家とか制度とか既にあるものをあてはめるものではない、社会を構成する個人間の「ことば」による交渉の結果としての合意にもとづくものである、ということだろう。
まだまだ、大塚氏の話について書きたいことはたくさんあるが、内容が多岐かつ深さを伴っているのでとてもじゃないが書ききれない。ただ、大筋としてはほぼ氏の著書「憲法力―政治のことばを取り戻すために―」(角川oneテーマ:ISBN4047100056)の通りなので、興味のある方は一読をお勧めする。私は現時点では護憲の立場なのだが、改憲の立場の人でも読む価値は十分にある。
これはまさに昨日の話だが、CLAWさんの2月11日のエントリー経由で、イラクで拘束された今井氏のブログ(今井紀明の日常と考え事)を見た。エントリーより先にコメント欄のひどさが目に付いてしまったが、この大半のひどいコメントの書き手は、「空気を読む」ことが大事で「他者」と関わる意思のない者の典型的な例なのだろう。なによりイラク戦争の当事国の一員であることの認識が欠落している。そんな連中が、「他者」と関わろうとするものに対し「空気を読め」とせまる構図。醜悪としか言いようがない。
確かに、社会に生きていれば「空気を読む」ことを求められる(強いられる)ことは少なくない。曰く、お前を取り巻く状況はこれこれこうなっているのだから、それを踏まえてこう行動しろ、と。与えられた状況下で最適の行動をするか、「ことば」による「他者」との交渉で互いのことや現状認識を共有し、状況を変えるよう行動するか。後者はとても手間のかかる方法だ。だから前者の方法をとる人は多くなるだろうし、そうすべきときがあることも理解する。しかし、前者の方法だけを選択してきた結果が今の社会の現状だと考えるなら・・・
思いのほか長くなってしまった。今日のところはもう終わりにしようと思う。
そういえば、一昨日の会で大塚氏に聞きたいことがひとつあったが、話しに圧倒されて聞くのを忘れてしまっていた。それは「バブル前ごろまでは、リベラル的な言説が優勢だったと思うがが、90年代以降は右派的言説が優勢になった。それは、社会なり思想なりを語るとき、表面的には対立している主張なり説明に、用いられた話の構造がまったく同じだったということはないか」ということ。まあ、どちらかというとこれは、憲法の話というよりは、氏の著書「物語消滅論」に通ずる話なのだが。
まあいい。また機会があったらそのときに聞いてみよう。
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