問題が発生するということは、何らかの矛盾が爆発した状態だと考えている。平たく言えば、物事には原因と結果があり、そしてすべての事柄は絶えず変動している、というように私は考えている。それは社会のことについても同様だ。
物事には原因と結果があるという考え方から見ると、日常的に起きるささいな出来事から、犯罪とされる出来事、「テロ」や戦争などの大きな出来事まで、必ず何らかの原因があるという考え方は特に変わったものではないと思っている。確かに問題が大きくなればなるほど、その原因は多岐にわたりそして複雑に絡み合うので、全容を把握するのは難しくなる。
なぜこんなことを考えているかというと、最近の意見というか世論の動向が、発生した(または発生しうる)問題にどう対処するかということばかりに重点を置いていて、なぜその問題が発生したかということを深く考えなくなっていると感じているからだ。
たとえば先月発生した奈良の小学生誘拐殺人事件。12月30日に容疑者が逮捕された。報道を見るかぎりだが、容疑者には子供に対して事件を起こした前歴があり、そのような性質の人間だということが暗に示唆されているようだった。もちろん、この逮捕された容疑者が犯人ならば、なぜこのような事件を起こすに至ったのか、その原因は徹底的に究明されなければならない。しかし、容疑者がこのような事件を起こす性質を持った人間だったということを暗に示唆するような内容の報道を見ると、すべての原因は容疑者本人にあり、という結論で決着しかねないような気がしてならないのだ。
そういう結論が、今後の対策にどのような影響を与えるか。おそらくは、そのような性質の人間はあらかじめ社会から排除しろという方向になるだろう。まずは厳罰化で抑制を図るだろうし、それでも危ないと判断される場合は、そのような性質の人間を特定するための手段をどんどん取り入れていくことになるだろう。具体的には、個人情報へのアクセスを容易にする、行動を追跡するための制度や設備の拡充、そして特定された個人に対する予防的措置の導入・・・
問題の発生を抑えるためだから、という理由も聞こえてきそうだ。しかし、これらの対策は、あくまで結果(または予想される結果)に対する手段に留まっていて、原因に対する対策になっていないのが大きな問題だと思うのだ。
結果に対する対処をするなと言うつもりは毛頭ない。現実に問題は発生しているのだから、ある程度の対策は現実問題として必要だと思う。しかし、物事には原因と結果が必ずある以上、問題が起こる原因に対する対処に力を入れなければ、いつまでも結果に対する対処に振り回されることになる。要するに、結果に対する対策は万全でも、問題が発生する原因に対する対策がなされていない以上、いつまでも問題が発生する不安にさらされつづけることになると思うのだ。
確かに、原因に対する対処というのはとても難しいと思う。奈良の事件も、原因はおそらくひとつではないだろう。ただ、この事件の容疑者のような人間がなぜ生まれてくるのか、それは原因を究明するためにも考えていかなくてはいけない課題だと思う。彼が生きてきた社会環境に何も問題がないことは、おそらくあり得ない。事件と直接関係はなくとも、彼がこれまで生きてきた中で、さまざまな矛盾があっただろうし、その積み重ねが彼の行き方に何らかの影響を与えたのかもしれない。彼が生きてきた社会が、彼にどんな影響を与えてきたか。原因のありかを考える上で、このことは欠かせないと思う。
この観点は、問題の大小に関らず大切なものだと思う。「テロ」や戦争についても同様だ。人間が活動する以上、不可避的に他者との衝突・接触は避けられない。そこにはいろんな矛盾が発生する。その矛盾を解決するために、他者に対する暴力や「テロ」や戦争が選択されるとしたら、その選択をしないように対処することと同時に、その選択に至る(または選択せざるをえない)状況になった原因を除去するための取り組みも行われなければならないと思う。さまざまな原因が複雑に絡むとても難しい課題ではあるが、原因を深く追及するという考え方を後回しにはしたくない、と私は思う。