池田小事件 宅間死刑囚の刑執行 法務省異例の早さ from 東京新聞 2004.9.14
近く予想される内閣改造で引退との観測もある野沢太三法務相にも執行させようという政府の意志の表れ、と9月14日付東京新聞夕刊は書いている。そうだとしたら、あまりにも恣意的すぎる。国家の手で生命を奪う死刑を行使する理由のひとつにこんなことが入るとは、あまりにもお粗末だ。
今回死刑が執行された二人のうち、宅間守死刑囚が起こした事件(大阪・池田小事件)は、死刑制度の有効性に疑問をもたせるに余りある事件だと思っている。その疑問とは、死にたがっている人間が周囲の人間を巻き込んで起こすようなケースに対し、死刑という量刑は犯罪の抑止力になり得ないのではないか、ということである。
私は死刑は廃止すべきと考えている。死刑は、社会が発生した犯罪を通じてその在り方を考えるプロセスを断ち切り、「異物を排除」しただけで問題解決とする極めて短絡的な結論しか導き出さない、社会をよりよくするには役立たない制度だと思っているからだ。被害者・遺族の気分感情を勘案したとしても、死刑が有効であるとは思えない。
たいていの重大犯罪は、回復が絶望的に不可能な結果になるものが多い。殺人はその最たるものである。どんなに悪逆非道と思える人間が殺人という重大犯罪をおかしたとしても、その犯罪に至る理由や背景の中には、その犯罪を起こした当事者を取り巻く社会の影響がないとは言えないだろう。社会の構成員である国民が考えなければいけない問題が含まれているかもしれない。どのような凶悪な犯罪であっても、その責任が100%犯罪をを起こした当事者にあるとは思えないのだ。
死ぬことは一瞬つらいだけ(あとはすべて無に帰すだけだから)だが、残りの人生の全てを被害者・遺族への謝罪と賠償に費やすことは、これほどつらいこともそうないだろうと思う。死ぬより生きるほうがはるかにつらい。犯罪を起こした人間ならばなおさらだ。
そういう観点から考えて、死刑制度は見直されるべきと強く思う。犯罪を犯した者が、その罪の重さへの慈覚も認識もないままに、国家によって命を絶たれるのは、その者にとっても、そして社会にとっても決してプラスになるとは思えない。