広島には、2度ほど行った事がある。長崎は1回だ。高校の修学旅行で広島に1回、そして原水爆禁止世界大会の広島と長崎大会に、会社の労組から派遣されて1回ずつ行った。
高校生の時は、行くときは完全に観光旅行の気分だったが、広島の原爆資料館では、その気分を残らず吹き飛ばして余りあるインパクトを受けた。事前学習である程度原爆の被害を調べていたにも関らず、実際の資料を目の当たりにして強い「違和感」を感じ、それは修学旅行が終わってもしばらく続いていたのを覚えている。(蛇足ながら、ここで言う「違和感」とは、日常生活の中での想像をはるかに超える「インパクト」について感じたものであって、それ以上でもそれ以下でもないことを付け加えておく。)
会社の労組から派遣されて行った広島では、被爆者の方の話を聞きき、市内に残る原爆の「傷痕」を訪ねた。その中で、数人の被爆者の方の話を聞いて印象に残ったのは、その人たちの「日常」と原爆投下でもたらされた「結果」のあまりの「落差」だった。
もう10年近く前になるので、詳しいことはほとんど記憶に残っていない。しかし、原爆が炸裂した瞬間の話、いわゆる「ピカドン」のことについて、話をしてくださった方々がその時何を見て何を思っていたかを聞きながら、その時の様子が想像の中でどんどんイメージ化されて自分に迫ってきた事は覚えている。
その広島に行った2年後に今度は長崎に行った。長崎でも、被爆者の方の話を聞いて、市内の原爆の跡をめぐった。
小高い山に囲まれた長崎は、ちょっと坂道を上ればその全体を見渡せる場所にすぐにたどりつく。爆心地から約500mほど西に離れた所に城山小学校という学校がある。もちろん被爆した場所のひとつであり、ちょっと前まで被爆当時の建物を使っていたらしい。坂を少し上った小高い場所にあって、そこから爆心地や平和公園、長崎の市街が見渡せる。同行してくれたガイドさんが、爆心地の方を指差した後、その指をちょっと上空に向け「あの辺りで原爆が炸裂したんです」と紹介してくれたが、その高さが思っていた以上に低いのに驚いた。上空約500mぐらいで炸裂したと言われるが、城山小学校から見るその高さは、目線を少し上に上げたぐらいの高度でしかない。顔を上に向けて見上げるほどの高さではなかった。そんなところで「ピカドン」があった。その瞬間に、約1400名の児童と31名の教師、105名の学徒報国隊員を失ったという。恥ずかしながら、とてもじゃないが、その時のことは想像しきれなかった。ガイドさんから語られることは、全て想像を超えていた。
今年の8月6日朝8時15分、テレビの前で黙祷した。2才の娘は、キョトンとした顔で私のことを見ていた。そのうち、このことを話す機会も来るだろう。それまで、戦争をするようなトンデモナイ社会にならないようにしたいものだ。
今年もまた、あの敗戦の日がやってくる。