★国の判断は誤り 圏央道土地収用訴訟判決で(共同通信) from goo ニュース 2004.4.22
圏央道:事業認定と土地収用裁決を取り消す判決 東京地裁 from MSN-Mainichi INTERACTIVE 2004.4.22
圏央道 事業認定取り消し あきる野訴訟『必要性ない』 東京地裁判決 from 東京新聞 2004.4.22
圏央道、事業認定・収用委裁決とも取り消し…東京地裁(読売新聞) from Yahoo! News 2004.4.22
公共事業は、主権者たる国民の意志がほとんど反映されない「お上」主導の事業が目立って多いが、道路行政などはまさにその典型。なぜこのような判決がいままで出せなかったのか。
国や自治体というは、主権者たる国民(住民)から請託されて行政という仕事を行っている以上、主権者(当事者)と納得・合意するまで話し合いを行い、そのために必要な施策をとる義務がある。「国(および自治体?)はそれをちゃんとしなさい」というこの判決は、至極真っ当なものと思う。さらに、事業を行う主体である国が、事業に伴うさまざまな影響(生活や地域環境などへの影響)を詳細に調査・立証する必要があること、さらに今後の道路事業について「事業計画の適否について早期の司法判断を可能にする争訟手段を新設する必要がある」と指摘するなど、画期的な判断を下している。
公共事業はこれまで、一度計画が決まると最後まで止まらないといわれ、どんなに環境に悪影響を与えようが経済的に無駄になると分かっていようが、完成まで突っ走ってしまうものと相場が決まっていた。現在でも実態はその通りのままだが、こういうことに各地から異論が出されるようになり、一部でダム事業が中止されるなど少しずつだが「風向き」が変わってきている。それが司法の場にも影響を与えるようになってきたのだろう、と思うのだ。
要するに、何をするにもきちんと段取りを踏んで、多少時間がかかっても、当事者たちが納得できる落とし所を作る努力を徹底的にやりなさいという、民主主義の基本中の基本を示したと言えよう。
この手の問題について、当事者の住民の「地域エゴ」とかいう意見やら論評やらがあるが、「あんなもの」を住んでいる土地に置かれる方には、場合によっては生存に関る重大な問題になりうることを果たして想像できているか。そりゃ、立ち退き料をつり上げるために抵抗しているような連中も中にはいるかもしれないが、そいつらがいるからって、異議申し立てそのものがエゴだと切り捨ててはいけないのも、民主主義の基本ではなかろうか。
利用者にとってみれば、ただ通過するだけの道路であっても、設置される土地の人間にとっては生活に関る重大な問題である。圏央道についていえば、今後何十年も無数の自動車が通る道路である。そのリスクは相当のものになるだろう。それについて納得行くまで話し合いたいというのはごく自然な要求だ。そのリスクが受け入れ可能なものなのかどうか、事業を行う主体である国(自治体)が、相手に対して徹底的に説明し立証をする義務があるのは当然だと思うが。
多大なリスクを相手に負わせようとしているのに、その異議申し立てに「地域エゴ」と非難するのは、これこそ「エゴ」ではないのか。「利用者のエゴ」「行政のエゴ」「道路完成によって利益を見込める者たちのエゴ」。今回の件に関しては、これらのエゴに比べれば、「地域エゴ」の方がよっぼどささやか且つ真っ当だと思う。
要求が真っ当なものでないのなら、いずれそれはほころびを見せ、支持されなくなってくる。今回の圏央道の裁判では、判決前に被告側(国)が「このままでは敗訴するぞ」とまで言われたのに、被告側の姿勢は変わらなかったという。さて、真っ当な意見はいったい・・・
結局、民主主義ってのは相当に面倒くさいものであって、国民は、その面倒をどこまで引き受ける覚悟があるのかが、さまざまな問題を通じていつも試されているのだと思う。それが民度(民主主義の成熟度)を示すバロメーターの一つだと見ている。で、イラクの日本人人質事件でも垣間見えたこの国の民度は、どうも「面倒」を排除する方向に向いているようである。程度が知れるとはこのことか。
ちなみに、この裁判を担当していた藤山雅行裁判長は、学生無年金障害者訴訟で原告勝訴の判決を出すなど、従来の日本の裁判所らしくない判決を立て続けに出していたことで知られる。この4月から医療関係の裁判を担当する部署に異動したとか。これって行政に厳しい人は外される、ってこと?
裁判所が、本当に司法らしくなるのはまだまだ先か。