ふとしたことで、派遣された自衛隊員の無事を祈り、留守家族を支援するというイエローリボン・キャンペーンのサイトに行き着いた。キャンペーンの趣旨として「イラクへの自衛隊派遣に対し、思想的・政治的背景を一切排し、いち同胞として派遣隊員の無事をお祈りし、留守家族を少しでも支援したい。」ということであるらしい。
いろんな立場をこえて、隊員の無事と留守家族の支援をするということについて、私は基本的に異論はない。ただ一点気になるのは、「思想的・政治的背景を一切排し、いち同胞として」という下りである。この文があることによって、自衛隊派遣に反対することが「隊員とその家族に対して無礼」みたいな論調で非難される可能性がある。そうなると、いろんな立場をこえたキャンペーンが成り立たなくなるのではないかと思うからだ。
暴論とか極論とか言われても結構だが、「隊員の安全と無事」を願うなら、一番確実なのは、政府に自衛隊派遣を撤回させてイラクにいる自衛隊を今のうちに即時撤退させることである。そんなことしたら「国際貢献をどうする」とか「アメリカとの同盟が損なわれる」などいろいろと言われそうだ。が、イラク戦争の当事国(主に米英)が、その戦争の正当性を立証できずに国際的に追い詰められている状況があり、さらに日本でも、派遣の前提となるべきサマワ現地先遣隊の報告より前に、政府が「サマワは安全」という文書を作りあげていたことなど、派遣の正当性どころか政府がみずから設定した前提さえ満足にクリアしていないことが明らかになっている。こんな下らないどうしようもない連中のおかげで、死ぬかもしれない任務をさせられている派遣隊員は、それぞれにどのような意思があるにせよ無意味・有害な活動をさせられていると心底思う。
そんな状況下でも、実際に隊員は行っている。いろいろな思いはあろうが現地で頑張っているし送り出した家族もこの状況に耐えている。だから、その気持ちを慮って支援しようという気持ちはわかる。でも、その論理って、先の第二次大戦(日中戦争、太平洋戦争等)で出征していた兵士とその家族に対する対応と、いったいどれだけ違うのか?とも思うのだ。
先の大戦時では、戦争に異論を持つ人に対する格好の説得材料として「前線の兵士」と「銃後の家族」が使われた。戦争に疑問を持っていても、近所にいる出征兵士とその家族のことを考えると、表立って戦争を批判できない。「お国のために頑張っている兵士とその家族を前に、お前はこの戦争に反対するのか!」という論理がまさに大手を振っていた。その論理と、今回の「いち同胞として」の隊員たちの無事と家族の支援というこのキャンペーンは、いったいどれだけ違いがあるのかと思うのだ。
すでに、というか案の定というか、私の知り合いでも「実際に行っているんだから無事を願うのは当然じゃない」と自衛隊派遣を追認する発言をする人もいる。「実際に送り出す家族の前で反対行動をするのは無礼」という人もいた。「賛成反対はそれぞれの考え方だが、反対するなら場所を考えろ」的な主張で、反対運動のことを批判する知り合いもいる。
誰よりも隊員の無事を願っているのは送り出す家族である。おそらくそうであろう。それに疑問をはさむ余地はないと思う。だったら、と私は考える。家族なら自衛隊が行くのに反対しなさい。派遣されてしまった今こそ反対しなさい。当事者とその家族の反対が、むちゃくちゃな派遣を進める政府には一番の痛手になるからだ。当事者が反対しづらい環境にあることは理解する。だからこそ、隊員の無事を祈るなら、送り出す家族が反対することが、一番有効な行動であり意思表示になる、と私は思う。
派遣される自衛隊員のいる基地前で反対行動をすることに理解を示したら、「場所を間違えている」的批判を受けたが、無事で帰ってきたい隊員と無事に帰ってきてほしい家族の願いを考えたからこそ、基地前や多くの人の前での反対行動をするのである。あれは、隊員とその家族にたいして「反対の意思表示をしよう」という呼びかけにほかならない。まあ、呼びかけの具体的方法についてはいろいろと議論の余地はあるが、反対行動そのものの目的としては、むしろ積極的にいろんな場所で行動すべきであると思うのだ。当事者、関係者のいる場所をふくめて。防衛庁やら国会前だけでやるのが反対行動ではない。
結局、今度の自衛隊派遣で日本人が問われているのは、海外に武装した集団を出すことの是非である。政府や官僚、そしてあらゆる政治家がそのことを問われているのはもちろんのこと、そのことは派遣される当の隊員やその家族にも問われているし、普通にこの国に暮らしている人たちすべてにも問われていることである。
「復興支援」とか「国際貢献」なとどいわれているが、「事実上の軍隊」(by小泉首相)を占領当事者(米英中心の多国籍軍)の一員として派遣する国の人間は、等しく否応なくこの問題に対しどのような態度を取るかが突きつけられている。国際的な国家間の関係で見れば、日本は既に一方の側に組みしているのだから、その国民がいまさら「政治的中立」などといっても通用しない。
確かに国論は賛否にわかれている。でも一方で自衛隊派遣は実行されてしまい、それは間違いなく日本の立場であるというメッセージとして、国際的に受け取られている。賛否わかれている中で、既成事実だけは積み重ねられているのに、「政治的中立」をもって隊員の安全と留守家族の支援というキャンペーンがどこまでできるものなのか、正直なところよくわからないのである。「隊員の無事と留守家族の支援」をうたっておきながら「政治的中立」というのは、「何もしない、何もできない」と同等なのではないか。悪くいえば「本気じゃない」のである。このキャンペーンを本気で広げていく気なら、政治的にならざるをえないはずである。
「隊員の無事を祈り、留守家族の支援」をするために具体的に何をするか。ただ「イエローリボン」のバナーをサイトに飾るだけなら、戦前戦中の出征兵士とその家族に対する対応をなんら変わらない。前提となっている「自衛隊派遣」を暗黙のうちに認めているのと同義だからだ。それはそれで十二分に政治的である。だから、立場をこえてどうするか一緒に考えて行動しよう、という問いかけが、このキャンペーンには必要なのではないか。
いま日本人が本気で考えなければいけないことの一つは、このイラク戦争とその戦後処理についてどういう立場で臨むかであると思う。「政治的中立」などという「立場」は、もはや跡形も残っていない。